「自由は楽しい」という思いが心を満たすとき、それはただ「好きなことをやっている」だけではなく、「自分に背負わされた鎧が一枚ずつ脱げていくような」感覚だと思います。『Animaru』はそのプロセスを、聴くたびに丁寧に提示してくれるアルバムです。メイ・シモネスの声、バンドのアレンジ、歌詞の内側にあるせつなさと希望、その混ざり合いが「自由」を哀しみや不安からの逃避ではなく、自分自身を肯定する一歩として描かれています。
まず、音楽的スタイルの多様性が一つの自由の表現です。ジャズ、インディーロック、J-POP、さらにはボサノヴァのリズムまでが混ざり合っており、どこか軽やかでありながら、しっかりとした演奏が伴っています。たとえば、《Dumb Feeling》のような曲では、ニューヨークという場所へのアンビバレントな視線(自分が特別だと思う日がある/ない日の境目、というような)が歌われ、それが遠慮でも卑屈でもなく「存在する感じ」として響きます。こうした率直さこそ、自由の根底にあるものではないでしょうか。
また、「I can do what I want」というタイトルの曲が示すように、世間や期待、あるいは他人の視線に縛られることを拒む声が強くあります。「見られること」を意識しつつ、それに縛られまいとすること自体が自由の始まり。そのため、このアルバムからは「自由はくるしいもの」とか「自由は責任を伴うもの」ということも同時に感じさせられます。自由という言葉だけでなく、その重みもまた感じ取れるのが、この作品の奥行きです。
歌詞と言語の使い方:内と外の自由
言語面でも、自由は巧みに表現されています。メイ・シモネスは英語と日本語を自在に行き来します。言葉を変えることは、アイデンティティや自意識を切り替えることにも近い。自分の言葉で、自分が感じているものを伝えようとする行為が、「自由を言葉にすること」の象徴です。あえて混ぜることで、どちらか一方の言語・文化に囚われない境界を作っていく。その境界の曖昧さが、聴き手に「境界の外側にも道がある」感じを与えてくれます。
さらに、アルバムの中で非人間/動物のモチーフも頻繁に現れます。「Donguri」の森の描写や、「Rat with Wings」のようなどこか予想外で奇妙な存在への目線。動物/森/自然のイメージは、人間社会の枠組み、規範、期待から少し距離をとれる場所として機能することが多いものです。そういったモチーフが、歌詞の中で“おかしみ”や“はかなさ”を通じて挿入されることで、「人間の私/私たち」の中に生まれるぎこちなさや不完全さを優しく包んで、でも逃げ込ませる場所ではなく、「共に存在する場所」として提示されているのが印象的です。
音の構造とアレンジ:自由への道筋
音楽の構造、アレンジの面でも、このアルバムは「自由感」を得るための設計が感じられます。
ジャンルのクロスオーバー
先に触れたように、ジャズ、インディ、ボサノヴァ、エモ、J-POPなどがただ混ざっているだけでなく、それぞれの転換や交差点にドラマがある。ビートが変わる、テンポが揺れる、静かな部分から爆発的なパートへ、またはその逆へ。こういうダイナミクスが、「抑圧されていた何かが開く/解放する」瞬間を感じさせます。
バンド・アンサンブルの緻密さ
弦楽器(ヴァイオリン/ヴィオラ)、ベース、ドラム、ギターといった伝統的な編成に加えて、空間の取り方、間(ま)の取り方、音の抜き差しがとても計算されている。たとえば静寂の中の一音、あるいは一瞬の余白が次の音を引き立てる、というような構築。自由というのは、ただ音が多いとか派手なことではなく、むしろ何を“置かないか”、何を“余らせるか”の感覚でもあるから、それが見事にできている。
曲順と流れ
アルバムの中盤にあえて静かな曲「Donguri」を置き、前半の比較的活動的/複雑な展開から、一旦呼吸を整えるように。後半ではまた少しずつエモーショナルなピークへと向かっていく構成。クライマックス的な閉じ方をする曲もあり、最後には「囁く/叫ぶ(Sasayaku Sakebu)」ような、解放の形を提示する終わり方。こうして始まりから終わりまで、「あなたが私であること、そのままでいい」という自由への旅が描かれているように聴こえます。
自由の感覚、あなたの感じた「嬉しさ」とは
あなたが「自由は楽しい」と感じたのは、このアルバムがただ逃避でも甘さでもないからだと思います。むしろ、現実の中で曖昧で、時に不安で、しかしそこに「私であること」を選ぶことの喜びがある。以下、そう感じさせる要因を整理します。
1. 対話する自由
メイ・シモネスはリスナーに問いかけたり、自分自身と対話するような歌詞を書いている。たとえば「どうして自分はこう感じるのか」「昔の私/これからの私」といった自己問答があり、それが聴く者にも「自分も同じことを感じていた」と思わせる。自由とは、他者や社会との比較や期待から一歩引いて、自分自身の声を聞くこと──このアルバムはその声を育ててくれる。
2. 失敗や弱さを恥じないこと
完全であることを求めること、失敗を恐れることは自由を萎えさせる。『Animaru』には、後悔や収まりきらない痛みが顔を出す場面がある。それでも、「もう戻らないけれどまだ想いはある」などの歌詞がある。弱さを認めることは自由を得る過程の一部であり、それを隠さずに見せることが、聴く者にとって大きな救いになる。
3. 自己の境界を乗り越えること
言語、ジャンル、モチーフの交差が、伝統的な「自分がどこに収まるか」という枠を曖昧にしている。そしてその境界の曖昧さこそが、「自分はあのレーベルには属していないけれど、ここにも居場所がある」という歓びをもたらす。あなたが「嬉しい」と感じたのは、おそらくこの“居場所”が音楽の中に見えたからでしょう。
4. 音楽の中での”今ここ”の存在
アルバム全体に流れるのは、「今ここで生きている実感」です。冒頭から聴き手を引き込むリアリティ、歌唱者の身体感覚や小さな情景(例えば森の中、動物の姿、双子の姉妹との思い出など)が具体的に描かれており、それらが自由の感触を増幅する。「遠くの理想」ではなく、「今手の届く現実」の中で自由を感じること。それゆえ感動が生まれる。
総評:自由の祝典としての『Animaru』
『Animaru』は、音楽的にも言葉的にも、「自由とは何か」を祝うアルバムです。ただ、単なる高揚感だけではなく、曖昧さ、痛み、後悔、問いかけ、そして小さな勝利──そうしたものが混ざり合っていることで、自由の意味が豊かになります。このアルバムを聴いた後、あなたが「自由は楽しい」と感じたことは、音楽があなたに自由を“感じる準備”をさせてくれたからでしょう。
そして、自由は「一度得られたもの」ではなく、「日々選び取るもの」だということも教えてくれます。歌詞の中で “I can do what I want” と宣言すること、あるいは “見られることを気にする”自分を認めつつ歩き出すこと、それらの瞬間が自由を生きるということです。メイ・シモネスはそういう瞬間を、細部にわたって丁寧に描き、聴き手にそれを共感させ、時には勇気を与えてくれる。
あなたがこのアルバムから受け取った「嬉しい気持ち」は、ただの一時的な喜びではなく、どこか自分自身を取り戻すような力を持つものだと思います。この作品は、これからも何度でも聴き返したくなる、心のよりどころのようなアルバムです。
参考

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