誰もが心の中に抱える、漠然とした不安や、誰にも言えない孤独。そんな日々を送る私たちにとって、音楽は時に避難所となり、時に背中を押してくれる存在ですよね。
ロックバンド・羊文学が届けてくれた最新アルバム『Don’t Laugh It Off』は、まさに今の時代に最も必要とされている「声」を持っている作品です。この作品を聴き終えて感じるのは、優しく、そして力強く、聞き手に寄り添って大丈夫だよと語りかけてくれるような、温かな眼差しです。
第1章:タイトルに秘められたメッセージ「ゆっくり受け止めて」。羊文学が今、私たちに寄り添う理由
羊文学といえば、塩塚モエカ(Vo/Gt)、河西ゆりか(Ba/Cho)、フクダヒロア(Dr)の3ピースが奏でる、静寂から一転して世界を塗り替えるような広大な轟音と、内省的でありながら普遍的な詩世界が魅力です。しかし、今作はその轟音の中に、これまで以上に明確な「優しさ」と「赦し」のトーンが加わっています。彼女たちの進化と真価が凝縮された、まさに傑作と言っていいでしょう。
そして、このアルバムのトーンを決定づけているのが、タイトルそのものです。
『D o n’ t L a u g h I t O f f』
このタイトル、文字と文字の間に、半角スペースが刻み込まれていることにお気づきでしょうか。「Don’t Laugh It Off」(笑い飛ばさないで)という一見強い言葉が、このゆったりとしたスペースを持つことで、ぐっと肩の力が抜けた印象になるんです。まるで「焦らないで、このメッセージをね、詰まった感じじゃなく、ゆったり気楽に聴いて、ゆっくり受け止めてほしいんだ」と、バンド自身が語りかけているかのようです。
笑い飛ばして「なかったこと」にするのではなく、不安も痛みも「あること」として、そっと抱きしめる。そんな温かい受容の姿勢が、このアルバムの冒頭からラストまで一貫して流れています。
このレビューでは、あなたが感じたその「大丈夫」の正体を、サウンドと歌詞から徹底的に解き明かしていきます。
第2章:「doll.」深掘り:あなたは知らないでしょ? 轟音の壁で守る「可愛い私」の秘密
アルバムの序盤で、私たちの心に鋭く切り込んでくるのが、先行配信もされたキラーチューン「doll.」です。この曲には、リスナーが羊文学に対して抱くイメージ、つまり「広がる轟音」と、そのサウンドスケープからは想像できない「可愛らしい、小さな決意」が見事に同居しています。
広がる轟音の中を「あなたは私のことを知らないじゃん、教えないよ」と可愛い詩のギャップが、この曲の核心を突いています。「doll.」は、サウンドとメッセージのコントラストが桁違いに際立っているんです。
まずサウンド。ノイジーで疾走感のあるギターリフ、硬質なリズム隊が牽引するパンキッシュな展開は、初期の彼女たちが持つインディーロックの衝動を思わせます。しかし、単なるラウドな楽曲ではありません。この広大な音の渦の中で歌われているのは、「あなたは私の何にも知らない」という、極めて個人的で、パーソナルスペースを守ろうとする女の子の感情なんです。
「だって愛してるって言っても 理由がない/きっと1番大事なとこは 誰にも見せない」
愛や社会的な「正解」を求められる中で、最も大切な自分の領域、心の奥底にある「秘密の核心」は誰にも明け渡さない、という強い意志。それは、大人の社会の中で「可愛い子猫」を演じながらも、本質的な自己だけは絶対に譲らないという、非常に現代的な自立のメッセージです。
轟音は、この「誰にも見せない秘密」という聖域を守るための、分厚い壁のようです。ノイズという武装の裏側で、彼女はそっと自分の心を抱きしめている。静かな優しさとは違う、自分を守り抜くための力強い「大丈夫」が、この曲の轟音には詰まっているのです。
第3章:【決意のビート】「声」にYUNA(ex. CHAI)のドラム? 静寂を破る「会いに行く」強い決意
もし、このアルバムの中で、聴き手の背中を力強く押してくれる一曲を選ぶとするならば、それは間違いなく「声」でしょう。
本当に素敵な曲で、「あなたの声が聞こえたら、どんなことがあっても会いに行く、という強いメッセージ」が示すように、この楽曲は、愛や友情、あるいは夢といった、人生を動かす根源的な衝動をテーマにしています。しかし、そのメッセージの伝え方が、驚くほどドラマチックで繊細です。
「声」は、静かな導入部から始まります。まるで夜中の静寂の中で、誰かの気配をじっと待っているような「静」の空気感。しかし、サビに至る瞬間に、その静けさが一気に破られます。轟音の壁が立ち上がり、サウンドが一気に広大な空間を描き出す。この「静と動を切り分けて曲のメリハリとメッセージをリンク」させる構成こそが、聴き手の感情を揺さぶる最高の仕掛けなのです。
静けさの中で研ぎ澄まされた決意が、一気に「動」のエネルギーとして放出される。「どんなことがあっても会いに行く」という強いメッセージは、ただ叫ばれるのではない。音の劇的な変化という演出によって、聴き手の魂に突き刺さるのです。
そして、この曲の「動」のエネルギーを決定づけているのが、ドラムの存在です。
この楽曲のドラムは、メンバーのフクダさんのタイトでソリッドなプレイとは異なり、力強くもしなやかなグルーヴ感が際立っています。この感触こそ、解散したガールズバンド「CHAI」のYUNAさんの演奏が担っているのではと邪推します。YUNAさんが持つ、あのパンキッシュでエモーショナルな「躍動感」のあるビートは、この曲のサビにおいて、メッセージを単なる感情論で終わらせず、「どんな困難も乗り越えるための推進力」へと変換しています。
また、「河西さんのコーラスが美しい」という点にも注目です。メインボーカルの言葉を優しく包み込むその「声」は、決意を固めた主人公を見守る、もう一人の信頼できる存在のようです。彼女のコーラスは、曲のメッセージを立体化し、「一人じゃない」という安心感を与えてくれます。
第4章:音像解析:なぜこんなに近く感じる? ギターとボーカルの「親密な距離感」が作る安心感
『Don’t Laugh It Off』を最後まで通して聴いたとき、私たちはある種の「浄化」にも似た感覚を覚えます。それは、第1章で触れた「優しさ」と、第2章・第3章で分析した「強さ」が、アルバム全体で完璧なバランスを取っているからです。
このアルバムの「大丈夫」という言葉は、安易な励ましではありません。それは、痛みを笑いに変換したり、なかったことにしたりせず、孤独や不安を知っているからこその温かさであり、不完全な自分をそのまま抱きしめることを許すメッセージです。タイトルの持つ倫理観が、作品全体を貫いています。
この深遠なテーマを支えているのが、羊文学独自のサウンドプロダクションです。
1. 質感豊かなギターとボーカルの「近さ」
塩塚モエカさんのギターが奏でる音は、時に激しくノイジーですが、その一方で、繊細なアルペジオや残響の美しさが際立ちます。特に、ボーカルの音像が非常に近く、聴き手の耳元で優しく歌いかけているように聞こえる。この「近さ」こそが、「寄り添い」の感覚を物理的に作り出しているんです。聴き手と歌い手の間に壁がなく、個人的な告白を聞いているような親密さが生まれています。
2. リズム隊の「安定と変化」が作るドラマ
河西さんの温かみのあるメロディックなベースラインと、フクダさん、そしてYUNAさんなどが叩き出すリズムは、アルバムの土台を支える「安心感」そのものです。
ドラミングの持つエネルギーが楽曲によって表情を変えることで、アルバム全体に一本調子ではない、豊かな感情のグラデーションを与えています。それはまるで、激しく揺れる感情の中でも、確かな一歩を踏み出す意志の鼓動のようです。
第5章:総評:不完全な私たちを赦す。このアルバムがくれる「明日へ一歩」の踏み出し方
羊文学のアルバム『Don’t Laugh It Off』は、彼女たちにとって一つの到達点であり、同時に新たな出発点を示す傑作だと断言できます。
これまでも彼女たちの音楽は、静けさと轟音のコントラストを通じて、複雑な感情を表現してきました。しかし、今作ではその轟音が、誰かを攻撃するための武器ではなく、孤独な魂を守り、優しく包み込むための「シェルター」へと昇華しています。
このアルバムの魅力は、何よりも「私たちが不完全であること」を、そのまま許容してくれる包容力にあるでしょう。
私たちは日々、自分の弱い部分や不安な気持ちを、つい笑い飛ばして片付けようとしてしまいます。だが、このアルバムはそんな焦りをそっと宥めてくれます。
「doll.」で秘密の核心を守り抜く強さを知り、「声」で誰かの存在を光に変える決意を受け取った私たち。これらの楽曲を通じて、私たちは自分自身の弱さを肯定し、不完全なままで一歩前に踏み出す勇気をもらうことができるんです。
最終的にこの作品がリスナーに届けてくれるのは、あなたも感じた、あのシンプルな一言です。
「大丈夫だよ」
それは、音楽を通じて彼女たちが、静かに、しかし全身全霊で発する、最も温かいメッセージです。この「大丈夫」は、根拠のない希望ではない。不安や痛みを分かち合い、それを音楽という形で昇華させた、羊文学自身の経験に裏打ちされた信頼の言葉なのです。
このレビューを読んだあなたが、もし今、少しでも立ち止まっているのなら、ぜひこの『Don’t Laugh It Off』を聴いてみてほしいです。ノイズの向こう側に、あなたの孤独に寄り添い、そっと手を差し伸べてくれるバンドの「声」が、確かに聞こえてくるはずです。

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