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映画『我々は宇宙人』を見て、King Gnu「白日」が聴こえてきた

我々は宇宙人 映画・ドラマ
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昨日、映画『我々は宇宙人』を見た。劇場を出たあとも、胸の奥がじりじりと熱を持っていた。面白さの奥に、長い痛みが残る作品だった。傷に塩を塗られるような感覚で、初めてKing Gnuの「白日」を聴いた夜と、同じ場所に立たされた。

感想の中身に入る前に、誰が、どんな構えでこの映画を作ったのかを書いておきたい。痛みの輪郭は、作り手の来歴と重なって見えたからだ。

門脇康平と、NOTHING NEW

監督は門脇康平。1996年、埼玉県川越市生まれのアニメーション作家である。東京藝術大学デザイン学科を卒業し、アニメ制作会社に勤めたあと独立。舞台映像やCMを経て、ミュージックビデオを中心に作品を発表してきた。代表的な仕事が、YOASOBI「優しい彗星」のミュージックビデオだ。前半の青い世界を一コマずつ水彩で着彩し、後半の赤い世界をデジタルで描き分ける。優しさと、その先にある冷たい現実を、筆の質感で対比した映像である。本作の撮影監督であり共同編集でもある立川憲一朗は、そのMVの制作にも加わっている。短い尺で磨いた手つきが、劇場の118分へ伸びている。

『我々は宇宙人』(英題:We Are Aliens)は、門脇にとって初めての劇場用長編アニメーションであり、映画レーベルNOTHING NEWにとっても初のオリジナル長編だ。企画、脚本、監督に加え、絵コンテ、キャラクターデザイン、作画監督、美術監督、編集までを門脇自身が担っている。一人の作家の記憶を、最後まで通した作り方である。

出会いの起点は2022年。東宝出身で、同年NOTHING NEWを立ち上げたプロデューサーの林健太郎と、制作プロデューサー小松梨紗子の紹介で顔を合わせた。門脇は高校を卒業したころから描きためていた断片的な絵コンテを携え、高知で企画書を書いた。仮題は『ふたつの夏』。出発点として置いた言葉は「全人類の人生を肯定する」。軸にしたのは、門脇自身が強烈な思い出として持っている「小学生時代の初恋」と「昔の友人との疎遠」だった。題名の『我々は宇宙人』は、作画が始まって半年ほどしてから着想された。見る前、劇中で題名が現れるとき、見たあとの三度で、観客が受け取る意味がずれるように、と監督は考えている。

制作日数は1443日。およそ4年である。国内の制作資金は、NOTHING NEWの単独出資とクラウドファンディングで組まれ、フランスのMIYU PRODUCTIONSが国際展開の一部を担った。社内にスタジオを立ち上げ、作画から背景まで内製している。この絵柄と、この考え方を外へ預けると映画が別物になる、という判断だった。全編が手描きで、ほぼすべてのカットは、実際のシーンに近い状況で実写のプレビズを撮ってから作画されている。小学生特有の、目的のない体の揺れを残すために、ロトスコープを取り入れたハイブリッド手法だと監督は語っている。

声は、成長したあとの後藤翼を坂東龍汰、星暁太郎を岡山天音が演じる。日常の範囲に収まる声質と、自然な演技。その条件から二人へオファーが行った。幼少期は同年代の子役オーディションで、翼を槙木悠人、暁太郎を中込佑玖が担当する。音楽はYaffle。主題歌はadieu(上白石萌歌)の「ささくれ」で、作詞・作曲・編曲もYaffleである。舞台は平成の田舎町で、モデルは監督の地元・川越を中心に複数の場所を組み合わせ、小学校は母校がもとになっている。瞬足や青リンゴ餅、ナルミヤの服といった、平成に実在した物が画面のなかに置かれ、記憶の手触りを補強している。

2026年9月25日公開。118分。PG12。第79回カンヌ国際映画祭の監督週間、アヌシー国際アニメーション映画祭2026の長編コンペティションに選ばれ、同年9月27日には世界三大アニメーション映画祭のひとつ、第50回オタワ国際アニメーション映画祭で長編部門のグランプリを受賞した。受賞時29歳は、同賞の史上最年少だと発表されている。

物語の輪郭

平成のある田舎町。小学3年生の春、自分が「普通」であることに悩む内気な少年・後藤翼は、クラスの人気者で「特別」な星暁太郎と出会う。キャッチコピーは「ねえね、俺のさ、相棒にならない?」。二人だけの遊び、意味のない会話、夕暮れの帰り道。かけがえのない時間が、ある地点から少しずつ歪みはじめる。物語の主題は「初恋」と「疎遠」。小学生のころから約30年が描かれ、前半は翼の視点、そのあと暁太郎の視点で、同じ時期がもう一度たどられる。翼と暁太郎は、観客がどちらか、あるいは両方に自分や知人を投影できるように設計されている。門脇自身が、両方の立場を経験しているという。

ここから先は、関係がどのようにずれ、どこへ着地するかまで書く。未見の人は、一度劇場で見てから戻ってきてほしい。

動きが、「この子はいる」を作る

最初に残ったのは、物語より前の、体の動きだった。子どもの歩き方、立ち止まったときの軸の揺れ、重心が遅れてついてくる感じ。ロトスコープは下地として確かにある。その上に、アニメーターが「アニメとして気持ちのよい動き」を載せている。見る側の体が先に反応するリズム、無駄に揺れる肩、立ち止まる直前のため。そのひとつずつが、説明より先に、子どもという生き物の気配を連れてくる。

その味付けがあるから、「この子たちは存在するんだな」と思えた。存在している、という錯覚が立ち上がった瞬間に、物語へ落ちていけた。写実の細かさは、その錯覚のための土台だと感じた。錯覚が強いほど、このあと来る痛みも深くなる。自分には、日本のアニメーションのなかでも最上の部類の手触りに見えた。

過去を置いて、今を他者の側から見る

テーマは、自分のなかでは二つだった。

一つは、過去は過去として置いたうえで、今を生きる勇気。もう一つは、今この瞬間を、できるだけ「他者がどう思うか」まで想像して動くことの大切さ。

この二つを同時に手にすることは、とても難しい。過去を引きずるまいと自分に言い聞かせると、相手の傷まで「もう終わった話」として横へ置きたくなる。相手の受け取り方を先に想像すると、今この瞬間が、過去への謝罪で埋まっていく。どちらに傾いても、もう一方が薄くなる。翼と暁太郎は、その狭い場所を30年歩く。両方の立場を監督が知っているからこそ、どちらを正解にもしない。バランスの難しさは、この映画の主題そのものだと思った。

声の選び方も、この主題と地続きに感じた。坂東と岡山の声が生活の音に近いから、翼の沈黙も、暁太郎の明るさも、その場にいた人の反応として届く。存在の錯覚は、絵と声が揃って完成する。

小さなごまかしが、未来を大きくする

二人の関係がずれていく過程は、思い違いとごまかしの積み重ねとして見えた。暁太郎はどん底まで落ちる。翼の大学以降は、順風満帆そうに見える。進学し、社会のなかを歩いていく。小学生のころの翼は、彼なりの地獄にいた。親からゲームを奪われ、勉強しろと言われる。むしゃくしゃした感情の矛先は、暁太郎だった。自分の苦しさの置き場を、いちばん近い相手に見つけてしまっている。

どん底の根っこには、そのむしゃくしゃが外へ出たごまかしやいたずらがある。見て見ぬふり。その場をしのぐための小さな嘘。言わなかった一言。それが時間をかけて、暁太郎の青春の形まで変えてしまう。大学以降の順調さの内側にも、その負債は残っている。表面の順調さと、暁太郎の転落は、同じ一つの選択から枝分かれしていた。

同じ時間を、翼の側から見たあと、暁太郎の側からもう一度見る。自分にとっては通り過ぎた午後が、相手にとっては分岐点だった、というずれがそこで露出する。思い違いとは、見ている世界が最初から違っていたことに、あとから気づく経験でもある。教室の噂、視線、初恋の周辺で掛け違えたボタンは、30年後の雨の夜に、別の顔で戻ってくる。

ここが一番怖かった。大人になってから「ごめん」で釣り合うサイズの失敗に収まらない、という怖さ。そして、自分も似たことを、気づかないうちにしているかもしれない、という怖さ。その場では冗談や照れや、波風を立てないための遠慮に見えるものが、未来の形を変えていく。小さないたずらが大きな影響になっていく様子は、教訓というより、体の芯が冷える経験だった。

白日が、頭のなかで鳴った

エンドロールのあと、King Gnuの「白日」が頭のなかで鳴っていた。初めてあの曲を聴いたときも、明るい光のなかに、言えなかった言葉だけが残された。傷に塩を塗られる、という感覚に近い。画面が暗くなったあとも昼の白さが残り、その白さのなかで、自分の過去が輪郭を持ちはじめる。

劇場を出てから込み上げてきたのは、自分の、未完了のまま置いてきた場面だった。

あのとき、ちゃんとありがとうと言えばよかった。 あのとき、ちゃんと相手と話し合えばよかった。 あのとき、初めから親切にしておけばよかった。

「白日」は、そうした遅れを、昼の明るさのなかに置いてくる曲だと受け取っている。明るさそのものが、遅れを隠さずに照らしてくる。本作の主題歌、adieu「ささくれ」も、タイトルがすでにその感触を持っている。爪のそばの小さな裂け目は、触るたびに痛む。映画のなかの「小さないたずら」と、同じ大きさの傷だ。劇伴を担ったYaffleが、主題歌の言葉まで書いている。画面の痛みと、エンドロールの痛みが、同じ手から出ているのがわかる。

King Gnuの常田大希が率いるmillennium paradeについては、以前2021年2月に聴いて好きになった音楽で触れた。あの記事で書いた「聴いたことがない音楽だけど、懐かしく感じる」という感覚は、この映画の画面にもそのまま重なる。平成の廊下や、夕暮れの帰り道は、自分の記憶のはずなのに、誰かの体を通して初めて正確に見えた気がした。

偶然の別れは、生きていく宣言だった

最後、どん底にいたほうの主人公が、前を向く。再会は偶然で、これが最後のお別れになる。その姿を、私は「これからも生きていくよ」という強い宣言として受け取った。

過去はそのまま残っている。相手の30年も、返ってはこない。そのうえで、これから先の時間を生きると決めた顔だった。一つ目のテーマが、ここで初めて実践される。過去は過去のまま置き、今から歩く。二つ目のテーマ、他者への配慮は、もう完全には間に合わない地点にある。間に合わなかったことを抱えたまま生きる、という着地である。結び目を残したままだから、宣言の声が強い。

塩を塗られたあとに残ったのは、次に誰かと話すとき、ありがとうを後回しにしない、という小さな決意だった。映画は答えを配らない。子どもの軸の揺れを、存在するほどの精度で見せ、30年後の偶然まで連れていく。だから、こちらの生活まで揺れてしまう。

「白日」を初めて聴いた夜と同じように、今日もまだ、胸の奥が熱い。

参考(本記事で参照・確認した情報)

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