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米津玄師「1991」レビュー ── ノイズの中で、想いは形を探している

米津玄師 1991 音楽
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2025年10月13日、米津玄師の新曲「1991」が配信開始された。

実写映画『秒速5センチメートル』の主題歌として書き下ろされたこの曲は、公開と同時にSNSを賑わせている。けれど、この曲を一度聴けば分かる。話題性だけではない。ここには、米津玄師というアーティストの「原点」と「現在」と「再会」がすべて詰まっている

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「1991」という年が意味するもの

タイトルの「1991」は、いくつもの意味を重ね合わせている。

まず、『秒速5センチメートル』で貴樹と明里が出会った年。そして、米津玄師自身が生まれた年でもある。さらに、映画の監督・奥山由之も同じ1991年生まれ。つまりこの曲は、三つの“出会い”を内包している。

  1. 物語上の出会い(貴樹と明里)
  2. 作家としての出会い(米津と奥山)
  3. そして、米津自身が「世界」と出会った年(出生)

それゆえに、「1991」は単なる年号ではなく、“原点の座標”そのものだ。米津は映画のためにこの曲を書き下ろしたが、結果的に自分の半生を振り返るような曲になったと語っている。

映画を媒介に、他者と自分、過去と現在、フィクションと現実──そのすべてを接続する試み。このスケール感こそ、米津の創作が到達した新しいフェーズを示しているように思う。

「僕はただいつまでも君といたかった」

曲の核心は、間違いなくこの一行だ。

僕はただいつまでも君といたかった

ここに宿るのは、愛の告白というより時間への祈りだ。「いたかった」という過去形の響きには、叶わなかった願い、止まってしまった時間が滲む。同時に、それを語れるということは、ようやくその痛みを見つめられる地点に立てたということでもある。

1回目のPre-Chorusではまだ感情が整理されず、ノイズに包まれている。だが、2回目でこのフレーズが登場するとき──音が一瞬だけクリアになる。粗くざらついたシンセの質感が、澄んだ光に変わるのだ。まるで、長い時間を経て、やっと「伝えたい想い」が輪郭を得たかのように。

しかし、曲の終盤では再びノイズが戻ってくる。せっかく形を得た想いが、また霧の中へと溶けていく。この構成の妙がたまらない。まるで、「君のいない人生に耐えられるだろうか」と問いかける貴樹の心の揺れをそのまま音で描いているようだ。

ノイズは、貴樹の想いの象徴

私は、あのノイズを「貴樹の想い」そのものだと思っている。

出会い、喪失、時間──すべてを通してもなお、彼の心の中には拭いきれないノイズが残っている。最初のノイズは、言葉にできない気持ちのざらつきだ。それは「好き」と言うよりも前にある、もっと原始的な「引き寄せられる感情」。まだ輪郭が定まらず、聴く者の胸にも刺さるような、未整理の感情の音。

2回目のPre-Chorusでそのノイズが一瞬消え、クリアなシンセが響く。「僕はただいつまでも君といたかった」という一行が、ようやく言葉として現れる瞬間だ。それはまるで、長い時間をかけてノイズの中から掘り出された“真実”のようでもある。

だが、その後またノイズが戻る。それは「言葉にできたからといって、心が救われるわけではない」ことの象徴だろう。ノイズは消えない。むしろそれが、貴樹にとっての“現実”なのだ。

この音の変化を、米津は恐ろしいほど正確に計算している。彼の曲にしばしば現れる「ノイズ」は、単なるエフェクトではない。記憶の歪み、言葉にならない痛み、時間の不連続──そうした“人間のノイズ”そのものなのだ。

「原作理解の悪魔」としての米津玄師

私は、米津玄師を“原作理解の悪魔”だと思っている。彼は作品の本質を読み取る能力が異常に高い。ただ物語をなぞるのではなく、その奥底にある「感情の構造」そのものを引き出す。

貴樹が何年も抱え続けた想い、あの「桜の下での別れ」以降、心の奥でずっと鳴り続けていたノイズを、彼自身の人生と重ね合わせて描いている。

つまり、米津玄師は“原作の情動を代弁する”のではなく、“原作の沈黙を翻訳する”のだ。

「僕はただいつまでも君といたかった」──

この一行で、貴樹が15年間言葉にできなかった想いを完璧に言語化してしまった。私はその瞬間、首がもげるほど頷いた。

米津と奥山由之、1991年生まれの邂逅

この曲は、米津と奥山という1991年生まれのふたりの邂逅から生まれた。

奥山監督は写真家としても映像作家としても、米津の世界観を深く理解している。

彼が撮る映像は、光の粒子や人の温度を感じさせるものが多く、米津の音と見事に呼応していると思う。

彼らは同じ時代を生きてきた“感性の同胞”だ。

「1991」という曲は、貴樹と明里の物語を超えて、米津玄師と奥山由之、そして1991年という時代に生まれた世代の“記憶の共有装置”のようにも聴こえる。

結び ── ノイズの先で、それでも想いは続いていく

「1991」を聴き終えたあと、心に残るのは静けさではなく“残響”だ。粗いノイズの中から生まれた想いは、一瞬だけクリアに輝き、再びノイズの海へと沈んでいく。けれどその繰り返しこそが、人生であり、愛であり、音楽なのだと思う。

貴樹の心に残ったノイズは、私たちの中にもある。誰かを思い出すたびに鳴る、微かなざらつき。その痛みを「美しい」と感じられるようになったとき、きっと私たちは「1991」をもう一度、新しい意味で聴けるだろう。

米津玄師はまたしても、自分の音楽で“時間”を掘り起こした。そしてその音は、誰の心の中にもあるノイズを優しく肯定してくれるように思える。

「僕はただいつまでも君といたかった」

──あの一行に込められたすべての想いは、今も、私たちの中で鳴り続けている。

実写「秒速5センチメートル」の感想も書いています。興味があればぜひお読み下さい。

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